我を張る努力
2009年11月 4日 01:15どうすればいいんだろう。
どうもしなくていい。
もし、それをしてしまえば、それは欲張りというものである。我を張るなら頑張りだが、他者に求めるのは欲張りなのだ。頑張るとは自分が成し遂げたいことであるが、他者に成し遂げてほしいとなればそれは欲でしかない。欲張らないということを成し遂げたという意味で、私はそれを不動の成果と定義している。
ところで、あなたは何を成し遂げたいのだ。
自分は「頑張るという文化」それ自体が間違いだ、と思っていたんだけれど、「自分の生きていく世界で「頑張る」こと自体は幸せなことだと思うし、「頑張る」方法が間違うのはしょーがなくて、そこで競争すればよくって、頑張るなというのは違う 」という指摘をいただいて、反論できなかった。
「努力は必ず報われる」これに間違いはない、そしてもうひとつ「報いには良し悪しがある」というのも確かで、あなたが成し遂げたいことが「誰かが良い報いを受けること」だするならば、反論できなかった理由はそれが他者に求めようとした欲張りだからだ。
今の私もそうだ。あなたに自分が何を成し遂げたいのか理解して欲しいと思うからこそ、これを書いている。書いている行為は努力だし、私はあなたが理解してくれることを成し遂げたいと、今まさに頑張っている。実に無駄な努力だと考えながら書いているが、その結果がどうなるのかはテキストエディタの上で書いている今はまだ判らない。
さて、本題に移ろう。
人の動きをエンジニアリングするやりかたは、どの業界を見渡しても、あまり上手くいっていない。
経済学を含めて、そうした学問は、「起きたことを説明する」ことは出来るけれど、「これから起きることを予測」したり、人を想定どおりに振る舞わせることは、まだ出来ない。
私には世界を動かす能力がある。自分にその能力があると自覚しているが、その方法を教えることができたとしても、すべての人がその能力を活かしきることはできない。何故なら人を動かす方法は我を通すことだからだ。我が通る一方で、他方の我が折れている。そして我を通すためにどうすればいいかは、この記事のタイトルにある。
「努力は必ず報われる」これは励ましの言葉ではない。頑張るという文化が間違っているとするならば、主催者と共同体のどちらかで是非を問うことだ。共同体工学の言葉で定義された「主催者」は「勇者」とも言える。だが「共同体」は「臆病者」とは言えない。誰かが主催者となればそれに応じて共同体になっているからだ。報いはどちらも受けることになる。そのことを理解した上で共同体になるのであれば、初めに示した不動の成果となるのだ。
ひとりでは頑張れない。ただそのことを理解してほしい。











