404 Blog Not Foundを読むのをやめた
2009年10月10日 18:01前に書いたことは...一度もないが、私のRSSリーダーにブログは1つしか登録してないのだが、その一つ、404 Blog Not Foundの登録を解除した。理由は、書評とは何か理解できたからだ。
404 Blog Not Foundを読むのをやめた - 池田信夫 blog
書評というのは、その人が批評に値すると思ったものを取り上げることに意味がある。
確かに広告としては続いていない。だが書評の意味はそれだけではない。
書評は本の価値を問うものではなく、その本の意味を発見することができるのか、読者の価値が問われるものだ。だから批評であれ広告であれ、その本の意味を発見できるならそれは書評に値する。
404 Blog Not Found はその名が示すように blog(ブログ) があるわけではない。そこには小飼弾という人がいる。この blog の価値を良書を教えてくれるものだと勘違いしてはならない。もちろん 池田信夫 blog も例外ではない。
私はこれまで両者のブログを本を選ぶために見たことはない。書評とは何かを問う池田信夫の答えが、私には新たな疑問として残った。だからその答えを見極めるために 404 Blog Not Found をRSSリーダーに登録してこれまで491件の記事をすべて読んできた。
そして、私は書評とは何かを理解した。その疑問に対する答えを示すなら、やはりその方法は書評でしかないであろう。
当たり前過ぎる答えだが、書評とは本を読むことなのだ。
本書の冒頭では、本を読むことを野球に例え実に見事に表している。
ボールをキャッチするということも、投げたり打ったりするのと同様、りっぱに一つの行為である。ボールに動きを与えるピッチャーや打者は「送り手」であり、その動きを受けとめるキャッチャーや野手は「受け手」である。だが、どちらも積極的な活動であることに変わりはない。もし、しいて受け身のものがあるとしたら、それはボールである。
私はまだ本書を一割も読んではいないが、書評に値すると断言できる。なぜなら私がそのボールであったからだ。書評について批評しようとするならば、書評の一つもできなければ論外だ。
blog、そして個人についてもそうだ。誰かの意見に異論を示そうとするならば、blog を書くか、個人でなければならない。そうでなくとも出来ると思う者は、たしかに発言することでその場に居合わせることになるが、自分がただのボールであることに気がついていないだけなのだ。
特に印象的だったのは、20代のニートみたいな感じの若者がずっと立ち読みしていたことだ。この写真を撮ってから40分ぐらいして本屋を出るとき、まだ読んでいた。自分がなぜこんな境遇に置かれているのか、答を求めているのだろうか。
たしかに答えを求めているのかもしれないが、その答えを求めているのは池田信夫に対してではなく、己に対するものであるはずだ。
404 Blog Not Found:リバタリアンの希望と勇気 - 書評 - 希望を捨てる勇気
本書には、自由より平等を優先してきた日本が、その双方を失って行く姿が克明に記述されている。それは目次からも伺うことが出来るだろう。
著者に対するもう一つの誤解は、「経済学者の言うことをきちんと聞かないから日本(人)は駄目だ」と主張していると見なされていることだろう。
それこそ誤解である。現実は「見なす」には至らない。まともに見れてなどいないのだ。
恐れる者が何をしないのか。それは見ないことに他ならない。その意味で本書「希望を捨てる勇気」の題名は、希望を捨てるという恐怖が、実は失っているのだということを見る勇気であると私はとらえた。
勇気を与えてくれる本ではないだろうが、ある者にとってその本を読む行為は勇気と言えるだろう。
ひとつ問う。あなたには本を読む勇気があるか。
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