経済的自立と家族の関係
2009年5月 2日 23:16フリーターとして生活して9年になるが、現在は借金が約100万円程ある。
借金がある生活はこれが初めてではないし、家計簿を付けるようになったので昔よりお金の扱いはできるはずだが、生活が回らなくなる状態になった。
何故か。
今生活が回らなくなった理由は過去に遡って話をしなければならない。私は高校三年生のときに中退して、17歳から19歳まで家で引き篭もり、働きもせず親の脛齧りながら家族との関係をどうするか考えていた。その引き篭もっていた間は自我の統制をしていた時期であり、心境の変化も激しかったが人生の岐路に立っていることを自覚していて冷静でもあった。
このまま家族との縁を切ることができる。そうすべきか否か。まず行動したのは自分の記録を消すことだった。小中学校のアルバムや卒業証書を捨て、家族のアルバムから自分の写真を全て抜き取り、切り抜き、身の回りの記録を可能な限り無くした。引き篭もっていた間の後半はただ時を待っていた。社会の仕組みが成人するまで親の許可を必要とすることばかりで、親の許可が必要ということに嫌気がさしていたので自由に行動できなかった。
そして、19歳となり成人まで間もない頃に沖縄を離れることにした。新横浜に寮のある軌道工事の会社で働くことにしたが、手持ちの金はないので父親から10万円借りて、その時のお金は働いて二ヶ月目に全て返した。一年程働いた頃には成人していて、一人暮らしに必要な生活費も貯まったので軌道工事の仕事を辞め、部屋を借りて一人暮らしのフリーターとしての生活が始まるが、その時家族には自分の居場所を告げず連絡がつかない状態にした。
波乱など無く、ゆっくり自立した。7年くらいはまったく連絡をしていなかったのだが、一人で生きることに関してこの社会は実に世知辛い。保証人や緊急連絡先などを必要とする場面が仕事や部屋を探す度にあり、それを避けていると選べる数は極端に減ってしまう。その間に私が考察していたのは自立と家族との繋がりである。
子供は親を見ている。私自身がそうであった。私の母親は躁鬱病であり、病からよく泣いていた姿が記憶にある。母親の存在は壊れてしまいそうな脆さもあったが、私に寂しい思いをさせていると感じて詫びながらも母親であろうとする直向きな姿を見ていた。しかしその直向きさが心の余裕を無くし、疲れ果てて壊れてしまう。私はどう接していいのか解らずただ側で見ていた。
父親は家庭を支えるために働き、裕福とは言えないが自由があった。母親が入院していて側に居ない時も多かったが、父親は私に対して何かを押し付けるようなことはしなかった。それが私に与えられた自由であり、母親が居ない時間が多いことも私を自由にした。
今から半年ほど前、家族と9年ぶりに再会したが、その際に父と二人で話をした。父が子供に対して押し付けるようなことをしないのは、母を見ていたからだった。母が躁鬱秒になった原因について話をしたとき聞いたことだが、母は兄弟の面倒を見る必要があり自分を抑えてしまうところがあったという。それを聞いて漠然としていたものが一つはっきりした。私は自由に恵まれているのではなく、自由を与えられていた。
父は経済的に家庭を支えていた。母はその中で病に苦しみながらも母親であろうと直向きであったが、その人生の大半を薬漬け程度の精神医療により過ごしていた。父が稼いだお金もそうだが、母の障害年金も経済的な主導権は父にあり、母が入退院を繰り返す精神病院は近いからという理由で決められ、他の精神科へ移ることを認めてはくれないと、母は私にこっそり話した。
母が救いを求める様に私に語りかけてくる。それを受けて私の感情は呼応せずにはいられない。しかし、父が母を虐げている訳ではない。父と二人で話をした際に母のことも話したが、父には病をどうしていいのか解らないのだ。父にできることは、ただ経済的な不安を取り除くことだった。
その昔、父はコックをしていた。リゾートホテルで働いていたこともあり、氷彫刻の本が家にあったのを覚えている。いつしかコックを辞め、米軍基地で働き出した。その頃から父の家での過ごし方に変化があり、居間でテレビをつけながら寝るようになっていた。時折、父が寝ているので母や私がテレビを消すことがあったが、消した途端に父は起きて、観ているからとまたテレビをつける。母や私はそれを不思議に思っていた。
9年ぶりに再会して父と二人で話したときに、その奇妙な行動の意味が解った。父は40歳から英語の勉強を始めたという。テレビでは英語の流れるチャンネルか洋画のビデオを流して、英語を耳に馴染ませようとしていたのだ。それは60歳を間近にした今でも続いていた。そんな父は65歳の定年まで働けるが、60歳で基地での仕事を辞めるという。会わなかった9年の間に知り合い数人と東南アジアやアメリカを旅したという話も聞いた。そして、退職後は中国との貿易を考えているそうだ。
私には姉が二人いて、どちらも結婚して子供もいる。甥や姪の四人はとてもかわいい。そして騒がしい。そんな家族が側にいるので父も母も退屈はしないし満たされている。甥や姪を見ていると、その成長に立ち会えることの素晴らしさを実感できる。
生活が回らなくなるまで放っておいた理由はここにある。そうなってやっと父からお金を借りるという選択肢を選ぶようになれたのだ。実際に15万円借りて今の生活は回っている。経済的な自立が自由であるという概念に囚われていると無意識的に感じていたから、自分の中にある自律を破ることで確かめた。
そして今、体験して自立していなくても自由であると理解したが、実感が薄い。これは知識では到達できない領域なのであろう。
遅刻の世界
小学校に通い始めた6歳頃の記憶がある。その日は朝寝坊してしまい起きた時には既に登校時刻を過ぎていた。家から学校までは丘をくだる坂道になっていて、幼い私は遅刻したことに焦り泣きながら必死に走っていた。涙を拭いながら何も考えずただ全力で走って、苦しくて苦しくて疲れて立ち止まった瞬間、何かに囚われていたと感じた。
いつもなら学校に通う友達がいる坂道に、自分一人しかいないことに気が付いたら涙も涸れた。そして瞳を開くと空は蒼くて日差しは透明だった。
